盆
真青な猫じやらし立つ盆の来て
『斧のごとく』より。昭和52年。
今年のお盆も過ぎた。
祖先の霊を迎える行事である。
地方によっては7月に行われる場合もあるが、歳時記では秋季とされていて、お盆が過ぎると何となく季節が進んだような気分になるというのは共通認識としてよいかと思う。
秋季と言っても8月前半は暑い盛りで、とても秋だと思えるものではないが、
気がつくと蟬声にツクツクボウシが混じったり、川蜻蛉以外の蜻蛉が飛んでいたりと、ちゃんと自然界では次の季節に備えているのが感じられるようになる。
作者が見つけたのは猫じゃらし。
まだ青々として、ピンと立っている様には若さが表れている。
「真青」という表現からは猫じゃらしの色の濃さ、存在感が見て取れ、秋の気配というより、「盆」ならではの確かな季節感を詠んでいるように思える。
作者には盆を詠んだ句が多い。
盆の浜足が短かく見えにけり
盆の家烏のこゑのひろさなり(以上『斧のごとく』より)
剣山を水中に置き盆三日(『黄檗山』より)
盆ちかし箪笥を摑み母の起つ(『櫂歌』より)
「盆」を契機に、作者は色々な「存在」を確認しているような印象がある。そしてその「存在」はすべてが等しい質感を以て、やや突き放した視点で描かれている。
この時期はまた日本が戦争を殊に強く意識する機会でもある。
昭和4年生まれの作者が、どのように意識していたか、直接聞く機会は無かったが、やはり多くの生命を考え合わせていたに違いないと想像する。
英霊ら金魚となりて永らへる(『黄檗山』より)
これもまた「盆」のひとつの感慨と受け取れるのではないだろうか。