三日月句会

俳句のこと。句会のこと。一考さんのこと。

万感のやさしさをもて雪の舞ふ

 句集「黄檗山」より。昭和56年。

 作者には雪の句が多い。

  生きてゐて氷の上の雪の嵩
  海に雪黒人兵の膝拍子
  石組みに無上無類の雪の来よ
  我儘に句は作るべし牡丹雪
  雪の上ぼろんと真日の転び出づ

 作者は横須賀の生まれ育ちだから、北国の人間とはまた違った感覚で雪を詠んでいるように思う。すぐ上に挙げた五句で描かれているのは、軽やかな雪、もしくは畏敬の念を伴う美意識としての雪。いずれにしても景として描かれた雪で、作者はどこか別の場所からそれを見ているような雰囲気がある。前向きで、煌めいている。

 しかし掲句からは何か異質な印象を得た。
「万感のやさしさ」という表現の所為である。

 シューベルトの歌曲集「冬の旅」に「宿屋」という曲がある。
 この一連の作品は、恋人を失って絶望した青年の旅を描いているのだが、その終盤、青年は墓地に行き着く。彼はそこを自分の安らぎの場所、つまり「宿屋」と表現する。もちろんその安らぎとは「死」を指す。しかしそこには「空き部屋」は無く、結局青年は重い足を引きずって「生」の旅を続ける。
 一度この曲の伴奏をしたことがある。青年が「死」に憧れる場面ではピアノは限りなく甘美で、包み込むような優しい和音を響かせる。一方で彼が再び「生」に目を向けなければならない失望感に立ち戻る場面では、低く硬い和音で迫っていく。
 それは若者の感傷的な気分かもしれないが、彼にとって死こそが安らぎであり、救いなのである。

 もちろん掲句とドイツ・ロマン派の世界が全く一致するとは云わないが、この句に接して、なぜかこの曲が浮かんだ。自然の大いなる力、「死」というものの平等性を思うとき、それをもたらすことを「やさしさ」と受け取る場合もあるのではないだろうか。
 掲句は牡丹雪だろうか。雪国では雪は危険なもの。雪と格闘する当事者には、なかなかこんな風には云えないかもしれないが、それでも「万感の」という語が説得力を持って響いている。

 今年の北海道は初雪が遅く、関東でも凩一号が吹かぬまま十二月を迎えた。
 写真は二年前の函館、五稜郭。掲句の雪は多分これではない。
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