三日月句会

俳句のこと。句会のこと。一考さんのこと。

「さがみね」3月号

さがみね抄」より

~句会出席者による自選6句~

 

探梅や靴紐締めて脇道へ    石下勝彦

五穀米春の匂ひを噴きこぼす  鈴木須美枝

莫大小の股引脱げず春疾風   仲出川廣明

梅便り施設の友に二通ほど   塙昌子

立春や鴨に目白に四十雀    兒玉利幸

年の豆一粒余し闇を打つ    鈴木康久

リニューアル中・・・

久々にこのブログを開いて、

前回の記事を書いた頃が「緊急事態」の真っただ中で、あまりトーンが変わっていない印象があってちょっと驚く。

結社「人」が解散して3年。もっと経ったような気がしていた。

「三日月句会」続いております。

最初A4の用紙一枚の4ページだった会誌も、現在12ページに。

地道~に続けるのです。

 

それで、もう少し真面目に俳句の話をしたり、

三日月句会のご紹介をしようという。

この作業にたどり着く前に、部屋を片付けていた。

やっと座って考え事が出来る部屋になった状況。

またいろいろ発信できたらと考えております。

あれこれ

東京を一歩も出ずに過ぎた八月。

恒例の旅行もできずに淋しかったが、その分東京散歩にいそしむ。

都心は却って人が少なかった。自分なりに飲食店を応援。

 

相変わらず句会が出来ない状態が続いているが、それなりにバタバタ。

 

「人」500号が届いた。

これが最終号。

創刊から41年、私が入会してから32年。

ほぼ人生の三分の二。すごいね。

 

句集を作った。

『キリンは森へ』。第二句集。

本当は急いで句集を出す必要はないと思っていた。

でも結社が無くなると決まったので、区切りとしていいかもしれないと思った。

どんな風にまとめるか、なかなか見えてこなかったのが、

2月にイタリアへ旅行して、その後の世界の激変を経て、不思議なほどするするとまとまった。

全力で真面目に作ったので、おおよそ私はこんな感じですと云えるものになったかな。

すでに過去の私ではあるが。

 

句を発表する場が無くなったので、二年前に立ち上げた「居酒屋句会」にもう少し本腰を入れることにした。

名前を「三日月句会」として、毎月会報を作る。

メンバーは現在7名。もう少し増えた方が面白いかな。

句会は点数よりも講評を重視したい。

しばらくマイペースで。

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一年続けた「一句を究める 進藤一考の推敲」も完走。

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カワイイ本になった。ヒナタに一冊進呈したいところ。

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会報作ってみました。まずは第一歩。

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こうやって作品を出すのは責任が伴うし大変なことだなと思う。

 

あぢさゐ

気が付けば6月も終わろうとしている。

毎年6月には函館へ帰省することが多いので、ちょうど東京の紫陽花を見損ねることが多い。

 

今年は特殊な事情で帰省もためらわれ、梅雨時を東京で過ごすこととなった。

梅雨時とはいえ、雨の降らぬ日は真夏日の暑さで、天気の観点でも常ならぬ雰囲気。

その所為か、紫陽花が乾き気味。

 

そういえば一考さんの紫陽花の句、

 紫陽花や朝は妊婦の満ちに満つ(『斧のごとく』より 昭和55年)

というのは思い出されるが、他はあまり印象がない。

昭和61年11月号に発表した

 海原にあぢさゐ月夜あるごとく

という句は、
 海原もあぢさゐ月夜となりにけり

と推敲されて『櫂歌』に採録されている。

 

夜の海が月光を受けてさざめいている。

地上では紫陽花が変幻自在な色を見せている。

その紫陽花の気配が海原にまで伝わっているような一体感がある。

さらに月の光を意識すると、宇宙にまで意識が行く。

ひとつに融合した世界を「あぢさゐ月夜」と言い留めた。

荘厳である。

 

夜の海の光を詠んだ句で、こんなものもある。

 付け睫毛などやめたまへ夜光虫(『斧のごとく』より 昭和54年)

私の愛誦句のひとつ。

どうもあの光は作者には少しばかりどぎつい印象を与えたようだ。

紫陽花の微妙な色合い、変化してゆくさまは、かなり好みに合っていたと思う。

しかし、どうも捉えきれなかったような印象がある。

正確に云うと、紫陽花への自分の感情を掴みきれていなかったように思う。

 滝上やあぢさゐ湧かす流れ来て(昭和62年)

 あぢさゐに遷座の神は狐達(平成元年)

 海坊主夜のあぢさゐを食べにくる(平成5年)

作者の大好きな朴の花とは対照的に、ある種の畏怖の念を抱いていたというか、まがまがしさ(とまでは云い過ぎか)を感じ取っているような雰囲気なのは見て取れる。

この三句はいずれも句集には採録されていない。ボツになった。

「海坊主」の句などぜひ完成させてほしかった。

 

一考さんは21年前に亡くなったが、その後紫陽花はどんどん新品種が出てきて、本当に多様になった。一考さんが見たら、また違う世界が現れたかもしれない。

あ、でも、華やかすぎて好まないかも。

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もの言いたげに見える。

 

ユダ

ユダ読むで金貨の如き夜光虫  一考

昭和50年作。『河』掲載。

 

ユダといえば「銀貨30枚でイエスを敵に売った」と広辞苑で身も蓋もないいわれ方をしている裏切り者の代名詞のような存在。Giotto の「ユダの接吻」も思い出される。

 

「ユダ読むで」から連想したのは太宰治の『駆込み訴え』。師イエスを裏切るまでの(裏切ると決めてから更に)葛藤と心情の変遷が、ユダ自身の独白によって一気に描かれている。

 

読んでみた。

じつは太宰治がどうも苦手で、あまり積極的に読んでこなかった。

いろいろ突き付けられるからだと思う。

最後にユダが「イスカリオテのユダ」と名乗りを上げるのが印象的だった。

 

聖書の話は知っていた方が良いが、「何の話だろう」と思いながら読み進めた方が面白い。

 

作中にこんな一文があった。

だから、あの人が、私の辛苦して貯めて置いた粒々の小金を、どんなに馬鹿らしくむだ使いしても、私は、なんとも思いません・・・(以下略)

以下、「それにしても労いのことばくらいはかけてくれても良いではないか」という心情が吐露されている。

何となく「粒々の小金」が「夜光虫」に重なった。

 

正しいとか正しくないとかは別にして、

ベストを尽くしたのに認められなかった。

善悪ではなくて、そこに自分の居場所は無いと悟ったときの絶望感は、思いが強ければ尚更のこと。

 

一考さんは何を思って夜光虫を見ていたのだろう。

訊いておきたかった。

たぶん答えてくれないと思うけれど。


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写真は「接吻」してるように見えるオグロプレーリードッグ。実際はモメてるところ。

八十八夜

八十八夜・・・立春から八十八日目に当たる。蔬菜類の苗はようやく成長し、養蚕は初眠ごろ、茶摘は最盛期で、農家は忙しい。この日以後は霜がないとせられている(角川文庫『俳句歳時記・春の部(昭和62年)』より)

 

個人的には「夏も近づく八十八夜」という「茶摘み」の歌を連想する。幼稚園児の頃のお気に入りの歌で、真冬に熱唱している録音が残っている。

たぶんあれが私の歌人生のピークだった。

 

改めて思いを致すに、春でもなく夏でもない、季節の動きだす気運の中という雰囲気があるように思う。

農事に疎いとこういう時に淋しい。

 

そう思うに至ったのは、一考さんの以下のような句に触れたから。

 

八十八夜樽の裏より子ども出て(S52)
湯地獄の漣もまた八十八夜(S58)
手拭の寸のきまりも八十八夜(H4)

 

どうということもない情景なのに、「八十八夜」というこのひとときが、逢魔が時のごとき独特の停滞感を表出している。

 

新幹線で静岡県を通過中に茶畑が見える。

茶摘みの頃というのは新緑の頃。

目に染みる。

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フレデリック

このところ、

しきりに「フレデリック」が思い出される。

レオ・レオーニちぎり絵のねずみ。

 

冬に備えてせっせと食べ物を集めるねずみたちの中で、フレデリックだけがじっと佇んで、何もしていないように見える。

仲間が咎めると、フレデリックは「ボクは働いてるよ。ちゃんと集めてる」という。

彼が集めていたのは「太陽の光」「色」「ことば」。

 

長い冬、巣穴に蓄えた食料が乏しくなり、話すこともなくなると、ねずみたちはフレデリックの「仕事」を思い出す。フレデリックは皆に眼を閉じさせると、自分が集めた光や色やことばを心の中に思い描かせる。みんな幸せになり、フレデリックを称賛する・・・

 

思うように外出もできず、不安もつのる今、

こんな風に、集めておいた光や色やことばを取り出して共有すれば、救われることもあるかもしれない。

もちろんフレデリックの表現力は非凡だし、また一見働いていなように思えたフレデリックをちゃんと受け入れ、且つ彼のことばを理解して思い描くことの出来る仲間たちもただ者ではない。「お腹がふくれない」とか云って怒る者もいないのはすごい。

 

でも、ニンゲンにもきっとこうした想像力はあるし、俳句を作っている者としては、これまで「集めて」きた光や色を、せめて自分の中で再現する努力はしたいと思う。

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フレデリックと「音楽ねずみジェラルディン」は特に印象深かった。