猫と市電
三月や猫と市電が海へゆく
句集『斧のごとく』より。昭和55年作。
函館を詠んだ句だと勝手に思っていたが(我田引水的に)、
富山は高岡の情景とのこと。
広辞苑によると「市電」は「市営電車または市外電車の略。通常、路面電車を指す」とあり、「主に市街の一般道路上の軌道を運行する電車(これも広辞苑より)」を思い浮かべればよい。
(ちなみに函館では、市内を走る路面電車を「電車」、JRなどの長距離列車を今でも「汽車」と呼ぶ)
軌道の上をガラガラと音をさせて走る市電、さほど速くなく、のんびりした雰囲気が漂う。さらに「猫と市電」とあると、並んで歩いているような趣で、もちろん猫は心の赴くままに我が道を行っているだけだが、たまたま向きを揃えて作者の前を通っていったようである。まっすぐ行くとその先は海。
きっと天気も良く寒くもなく、広がる海のきらめきが思われるような日なのだろう。
街全体の明るさも感じられる。
「三月」でなければ決まらない句のように思える。
高岡へはまだ行ったことがないが、調べてみたら「万葉線」という路線らしい。
この句が作られた頃はこの名称ではなかったようだが、旅情を誘う名前である。高岡ー新湊間を走っている。「海」は日本海か。
春先の日本海を見に、一度訪れてみたい。
二月
2020年2月2日。
令和二年二月二日でもある。
せっかくなので何か書いておこうという。
どうせなら22:22も狙うのであった。
一考さんは「二月」の句を多く詠んでいる。
一年の中で「十二月」に次ぐ二番目の多さである。
たしかに「十二月」といえば様々な感慨が押し寄せてくるような印象があるし、
「二月」は季節の鮮やかな変化を予感させる響きを持っている。
二月の捨て湯に添うて石畳
『真紅の椅子』より。平成八年。
熊野での作らしい。
私自身は熊野を一度しか訪れたことがないから、確固としたイメージが持てないが、
「熊野」「石畳」とくると寺社の門前町や旧街道が思い起こされる。
湯を捨てたら石畳の目に添って流れた。
本来なら「石畳に湯が添う」という表現になるはずだが、作者は湯の方を主体と見た。
それだけ湯の流れが生き生きしていたということだ。
まだ空気の冷たい二月、湯気も盛大に上がっただろう。
それでいて、一月の張りつめた寒さとは違って光も強くなり、湯の流れの輝きが思われる。だから捨てられた湯も能動的に流れ、石畳の輪郭を際立たせている。
熊野といえばこんな句もある。
店頭に春茸溢れ那智の滝(平成五年)
一考さんは「人」大阪支社での例会の後、よく熊野や高野山に寄っていたそうだ。
私が俳句を始めるきっかけになった句「油虫飛んで見せたり高野山」(昭和59年)をはじめ、この地で詠まれたものは力強い生命感に満ちている。油虫も春茸も、それぞれでありながら、「山」というひとつの大きな生命の中にあることを感じながら詠んでいるように思う。
「油虫~」の句を読んだ高校生の私にとって、高野山は憧れの地になった。
早春の熊野も是非この目で見てみたい。
あらたまの
あらたまの脈拍に指あててみよ
『白昼』より。平成五年。
一考さんは毎年かなり意識的に新年を詠んでいる。
年の初めに良いことばを放つというのは詩歌に関わるものとしては当然意識すべきことなのかもしれない。
自分が出来ていないので反省している。
「あらたま」は掘りだしたままでまだ磨かぬ玉(広辞苑)のこと。
「あらたまの」は和歌の枕詞で「年」「月」「日」「夜」「春」にかかる。
「あらたまの年」は新年のことで俳句の季題にもなる。
ということで掲句。
「あらたまの」の後に「脈拍」となっていて、和歌のルールから見ると外れているのだが、俳句では許容されている向きもある。
たとえば「ぬばたまの」ですでに「黒」が暗示されているとか、「垂乳根」=「母」といった具合。いうまでもないというところか。
私自身は積極的には用いないが、枕詞の響きの持つ魅力はやはり大きい。
新年を迎えて「あらたまの」と詠いだす気分もよく分かる。
淑気満ちる中で、作者は「脈拍に指あててみよ」と云う。
「あててみる」ではなく「あててみよ」。自分の鼓動を確かめろというのである。
以前より作者は、自身の身体を句に詠んでいる。時には自らの老いや病を覗わせるような作もあるが、そればかりでなく、俳句を発する主体としての肉体を確認する作業なのではないかと思える。
一年の始まりに自分の脈拍を感じ取る。実体として自分は確かに存在する。
地に足を付けて、自分の脈拍を恃みに、今年も生きる。句を作る。
「あててみよ」は作者自身を鼓舞することばなのだろうが、読み手の心にも深く響く。
惑わずにペースを守って歩みたいものである。
葉鶏頭
微笑ましい原稿が出て来たので載せておく。
葉鶏頭絶句を絶句たらしめむ 歌澄
真赤な句を作りたかった。
偶々訪れた発行所で、備品の封筒の宛名書を見たある人が、「あら、これ○○さんの字だわ」と呟いた。筆跡の主は、俳人としての将来を嘱望されながら五十代の若さで亡くなった人だった。
その呟きが何となく耳に残ったままバスに乗っていて、突然大きな葉鶏頭が視界に飛込んできた。実際の風景だったのかは定かでない。不意討のように掲句が形になった。「絶句」ということを考えていて、そこに現れたのが「葉鶏頭」だったということかと、今になって思う。
この句が出来たのは平成四年。恐る恐る出句した(私ごときが出句してもよいのかと電話で問合せた)東京例会で一考主宰の特選を頂いた。応えてもらったのが嬉しかったし、こういう句を作ってもよいのだという自信にもなった。いろいろな意味で契機になった句。
*** *** ***
句を作ったのは大学生の時。文章を書いたのは8年前。
現在とも時間の隔たりを感じるね。
当時の東京例会の緊張感まで思い出した。
夜寒
しやらくせいと夜寒の声すシャンデリヤ
『斧のごとく』より。昭和53年。
「人」創刊前夜の句。
普段「しやらくせい」などという台詞はなかなか聞かれない。
発するのにも力が要る。近松や黙阿弥あたりの世話狂言の一場面なども彷彿とする。
語尾からすると江戸っ子か。
広辞苑によると「洒落臭い」で、「なまいきである。分をこえてしゃれたまねをすること。利いた風である」とある。他の表現に言い換えるのは難しいような気がする。
「小賢しい」と似ているが、動かされる感情がもっと大きいイメージがある。
当時作者は大変困難な(というか不本意な)状況にあったが、心情をひとことも漏らすことなく俳句に集中していた。強靭な精神力と、俳句そのものと次元の違う事で俳句を貶めたくないという矜持が感じられる。
そんな時に耳にした「しやらくせい」。作者の状況とは関係のないものかもしれないが、作者の中で「シャンデリヤ」の輝きと呼応してさざめいている。
この句、結社誌に掲載された当初は語尾が微妙に違った。
しやらくせえと夜寒むの声すシヤンデリア
下線部を「え」→「い」、「ア」→「ヤ」とし、「夜寒」と送り仮名を削ったことにより、響きにキレが出て、視覚的にも緊張感が増した。
S音の響きや「夜寒」の暗さ、皮膚感覚と相俟って、シャンデリアの光に一層の鋭さを与えている。
ここで、「夜寒」は勿論秋の季題で、冬の寒さとは違う。
初秋の温かさを引きずっての寒さは、張りつめた冬の空気よりも動きがあり、緩みがある。場合によってはそちらの方が辛いものである。
ふり撒かれたシャンデリアの光は、作者が心に秘めていた思いの発露だったのかもしれない。
新米
新米に梅干一つ乗せてみる
『黄檗山』より。昭和57年。
新米の季節になるといつも思い出す。
そして実際にやってみる。
私の中で、新米の儀式のようになっている。
この句を鳥居おさむが魅力的に鑑賞している。
新米を炊く。
真白で、艶があって、しかも粒が立っている。
それだけで、真直ぐ箸が走りそうになる。
しかし、待て、と思う。
茶椀に盛った新米の銀飯、その山の上に、梅干を一つ乗せて見た。
思わず笑みをもらす。こみ上げるものがある。
「贅沢は敵」という戦時下の言葉があった。
しかし、「贅沢は素敵」なのだ。
しかも、ささやかな贅沢のよろしさではないか。
『こころの秀作百選シリーズ② 進藤一考篇』(昭和62年刊)より
これ以上の説明は必要ないと思う。
掲句から想起するのは、やはり炊きたてのご飯。しかも「新米」。輝きが違う。
そういえば、句ではひとことも「炊きたて」とか「ご飯」とか云ってはいない。
けれどもこれを読んで、炊く前の米粒や米袋に梅干を乗せている図を思い描く人は、少なくとも俳句を作る人の中には居ないのではないかと思う。
季語に限ったことではないが、ひとつの語から経験と感覚を駆使してどれだけのものを読み取ることができるかということは俳句を読むうえで重要なことで、また、だからこそたった17文字の俳句が文芸として成立し得るのである。
私事だが、
子どもの頃、戦争中に「おにぎりが食べたい」と云いながら亡くなった幼い男の子の話を聞いたことがあった。
炊きたてのご飯が食べられるのは幸せなことなんだと強く印象に残った。
句が生まれてから37年、新米に対する感覚は、時代とともに多少の変遷はあれど、共感を呼ぶものである。
鑑賞文の末尾に「ささやかな贅沢」とある。新米と自分だけの濃密な時間。「ささやか」という語には、余人を介さぬ密事めいた雰囲気が感じられる。
それから30年以上を経た現在、多方面の技術の進歩のお蔭で「ブランド米」が盛んに生み出されている。ともすると「大変な贅沢」だったりもする。
有難さを噛みしめながら対峙したい。