二月
2020年2月2日。
令和二年二月二日でもある。
せっかくなので何か書いておこうという。
どうせなら22:22も狙うのであった。
一考さんは「二月」の句を多く詠んでいる。
一年の中で「十二月」に次ぐ二番目の多さである。
たしかに「十二月」といえば様々な感慨が押し寄せてくるような印象があるし、
「二月」は季節の鮮やかな変化を予感させる響きを持っている。
二月の捨て湯に添うて石畳
『真紅の椅子』より。平成八年。
熊野での作らしい。
私自身は熊野を一度しか訪れたことがないから、確固としたイメージが持てないが、
「熊野」「石畳」とくると寺社の門前町や旧街道が思い起こされる。
湯を捨てたら石畳の目に添って流れた。
本来なら「石畳に湯が添う」という表現になるはずだが、作者は湯の方を主体と見た。
それだけ湯の流れが生き生きしていたということだ。
まだ空気の冷たい二月、湯気も盛大に上がっただろう。
それでいて、一月の張りつめた寒さとは違って光も強くなり、湯の流れの輝きが思われる。だから捨てられた湯も能動的に流れ、石畳の輪郭を際立たせている。
熊野といえばこんな句もある。
店頭に春茸溢れ那智の滝(平成五年)
一考さんは「人」大阪支社での例会の後、よく熊野や高野山に寄っていたそうだ。
私が俳句を始めるきっかけになった句「油虫飛んで見せたり高野山」(昭和59年)をはじめ、この地で詠まれたものは力強い生命感に満ちている。油虫も春茸も、それぞれでありながら、「山」というひとつの大きな生命の中にあることを感じながら詠んでいるように思う。
「油虫~」の句を読んだ高校生の私にとって、高野山は憧れの地になった。
早春の熊野も是非この目で見てみたい。