新米
新米に梅干一つ乗せてみる
『黄檗山』より。昭和57年。
新米の季節になるといつも思い出す。
そして実際にやってみる。
私の中で、新米の儀式のようになっている。
この句を鳥居おさむが魅力的に鑑賞している。
新米を炊く。
真白で、艶があって、しかも粒が立っている。
それだけで、真直ぐ箸が走りそうになる。
しかし、待て、と思う。
茶椀に盛った新米の銀飯、その山の上に、梅干を一つ乗せて見た。
思わず笑みをもらす。こみ上げるものがある。
「贅沢は敵」という戦時下の言葉があった。
しかし、「贅沢は素敵」なのだ。
しかも、ささやかな贅沢のよろしさではないか。
『こころの秀作百選シリーズ② 進藤一考篇』(昭和62年刊)より
これ以上の説明は必要ないと思う。
掲句から想起するのは、やはり炊きたてのご飯。しかも「新米」。輝きが違う。
そういえば、句ではひとことも「炊きたて」とか「ご飯」とか云ってはいない。
けれどもこれを読んで、炊く前の米粒や米袋に梅干を乗せている図を思い描く人は、少なくとも俳句を作る人の中には居ないのではないかと思う。
季語に限ったことではないが、ひとつの語から経験と感覚を駆使してどれだけのものを読み取ることができるかということは俳句を読むうえで重要なことで、また、だからこそたった17文字の俳句が文芸として成立し得るのである。
私事だが、
子どもの頃、戦争中に「おにぎりが食べたい」と云いながら亡くなった幼い男の子の話を聞いたことがあった。
炊きたてのご飯が食べられるのは幸せなことなんだと強く印象に残った。
句が生まれてから37年、新米に対する感覚は、時代とともに多少の変遷はあれど、共感を呼ぶものである。
鑑賞文の末尾に「ささやかな贅沢」とある。新米と自分だけの濃密な時間。「ささやか」という語には、余人を介さぬ密事めいた雰囲気が感じられる。
それから30年以上を経た現在、多方面の技術の進歩のお蔭で「ブランド米」が盛んに生み出されている。ともすると「大変な贅沢」だったりもする。
有難さを噛みしめながら対峙したい。