秋茄子
秋の昼一つは茄子を焼きたまへ
『櫂歌』より。昭和60年の作。
季語は「秋の昼」だが、「茄子」のインパクトが強くて、つい記事のタイトルを「秋茄子」にしてしまった。
長年、「ああそうですか」と思って遣り過ごして来た句。
ふと情景が気になる。
茄子を詠んだ句を季節を問わずに探してみる。
茄子馬も子を産むべかり夜の雨
遠野には秋の茄子と飢餓仏
秋茄子を食むでややある刻のごと
茄子苗のうちより茎の濃紫
下総の茄子に種入る囃子かな
あかときの籠の置かれて初茄子
茄子の色、味、食感、そして佇まいというか風情というか、
総合的に作者は好もしい印象を抱いているように思う。
以下、勝手読み。
たまたま家に居る秋の昼。貰ったのか買ったのか、つやつやの茄子が籠に盛られている。
作者は昼餉に茄子が味わえるのをひそかに期待していたが、その茄子は膳には上らなかった。あちこちの支部の句会を飛び廻る多忙な作者が、次に帰宅するころにはもう茄子は無くなっているかもしれない。ちょっと残念に思いながらも茄子の鮮やかな色を愛でているようである。
そこで茄子を焼いてくれと主張をせずに一句にするところが微笑ましい。
「焼く」というシンプルな食べ方にも、作者の茄子への敬意と愛情が感じられる。
なんだか私も茄子が食べたくなる。やっぱり焼き茄子かな。