三日月句会

俳句のこと。句会のこと。一考さんのこと。

おでん煮る微笑むやうに煮よといふ

 須藤葉子先生は「人」創刊時からの同人で、私が俳句を始めた頃の「人」函館支部長として、一方ならぬお世話になりました。
 句の指導というだけでなく、俳句を作る者としての佇まいや心構えなど、先生は何ひとつ押しつけがましいことは言いませんでしたが、多くのことを学びました。
 昨年その須藤先生が「人」を退会されました。大正14年生まれの91歳という年齢を考えればやむを得ないのかもしれませんが、函館支部で毎年発行している合同句集『水脈』誌面においてもメンバーの落胆ぶりが覗われます。同時に、「人」という結社そのものが、もっとこの損失の重大さに気付くべきなのではないかと少なからず残念に思ったものです。

 その『水脈』、今年も原稿の締切が近き、昨年のものを引っ張り出していた次第で、その際「須藤葉子特集」に寄せた私の文章をご紹介させていただきます。

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おでん煮る微笑むやうに煮よといふ


「函館には須藤葉子がいるでしょう」という進藤一考のひと声で、「人」函館支部が発足したと聞いている。それ以前に「河」在籍時代から進藤一考の句に惚れ込み、「ご指導を受けるにはどうすれば良いでしょう」と直接問い合わせ、函館支部を立ち上げた人である。ご本人は「人数集めのために妹や弟を巻き込んだの」と笑っていたが、そこで巻き込まれたのが田畑和子や田畑祐一郎など、函館支部の屋台骨となる人たちだった。

私が句会に参加するようになったのは昭和六十三年。のびのび俳句を作らせて貰えたのは葉子先生の度量と確かな鑑賞眼のお蔭であり、句ばかりでなく俳句と向き合う姿勢や人としての佇まいなど、こんにちの私の土台となる多くのものを得た。「云いたいことは俳句で云おう」と私が決めたのも、いま思えば葉子先生の影響だったような気がする。


夏至の日の茸の黒き裸尾根
抱卵期鴉がジャックナイフなる
コップの水の直立天皇誕生日
一年のまん中にあり白牡丹
カレーにもシチューにもなる雪催
ひらいても窪むてのひら霊祭
馬黍の風のそこより鉄路果つ
頬杖の少し外れて鳥雲に
雲水の列のうしろを夏ゆけり
窓拭いて芽木の林を拭いてをり


 「人」ならではのかっちりとした二句一章、一瞬を捉えた写生、深いところにある可笑し味、どきっとするような有機的な闇の深さ。語るには紙幅が足りないが一句だけ、


カレーにもシチューにもなる雪催


云われてみればそうだ。材料も、肉や野菜を炒めて煮込む手順も似ている。そこから加えるルウやスパイス次第でどちらにもなる。冷え込みが厳しくなってきた夕刻、どちらにしようかと思った一瞬、或いはもう決まっているがふとそのことに気付いた一瞬が、今にも雪の降りそうな重たげな空の緊張感と相俟って不思議な浮遊感を得ている。作者の眼はその孤立した一瞬を捉えながらも、全体の空気は温かく大らかである。
俳人の定義はいろいろあるかと思うが、須藤葉子は紛れもなく本質的に俳人である。今も北の大地に根を下ろし、つぶらな瞳で世界を見つめ続けているのである。
(川越 歌澄)